event review
 
OEL
2011年2月1日 渋谷 Bar Isshee
 <出演>
 航(key,vo)×西沢直人(per)
 
伏谷佳代氏 イベント評
 航を聴くのはほぼ半年ぶり。前回はセカンド・アルバム『Do-Chū』のレコ発の一環で、植村昌弘(ds)とのユニットだったが、この日はパーカッショニストの西沢直人とのデュオ。航というアーティストは、豊かなクラシック音楽の素養を存分にそのプレイに反映させている。クラシック音楽という定型が、彼女にとっては邪魔になるどころか、めくるめく自由への装置でありバネとして十二分に機能する。どの瞬間を取っても、航はピアノ(或いはシンセ/エレピ)をしっかりと弾き込む。奇を衒ったような投げやりな処置はなされない。かすれた音でも、ピアニシモでもフォルティシモでも、壮麗なる和音でも、それぞれが音として明確な輪郭を持つ。ひとつひとつの音が冷静さを保っていると言ったら良いか。聴き分けられながら弾き分けられる音。クリアでありつつ身体に無理のないフィット感を持つ所以だろう。多分その音は、時間を分割して考えればかなり残存率は高いのであろうが(繰り返すが、しっかりと弾いているので)、浸透率が良いのにべたつき感は少ない。音を一度客観的に突き放して、身体感覚の次元にコントロールする航独自の物語センスとユーモア。豊かで深いハスキーボイスと「逃げ」のない巧みなピアノ。それらが共演したり離演(*私の造語です。ニュアンスをお分かりいただければ)したりする、増幅と分裂と伸縮のレースが航の音楽の楽しさである。
 一曲目は「パチパチ火の粉のうた」と本人が説明していたが、かなりゲーム音風のエレピによる、乾いたスタッカート音の連打。合間を縫うように侵入してくる西沢直人のパーカッションは、鉄製の釣鐘を四本束ねた美術作品や、同じく鉄製の円形のオブジェを巧妙に分断して床置きしたものなど。つい南部鉄器の風鈴を真っ先に思い出してしまったが、清明でさらりとしたナチュラルな音の伸び。それらと思いっきり人工音のエレピとの会話による瞬間芸。これは曲モノなのになぜに瞬間芸かといえば、ことごとく焦点がリズム構造に還元されているからである。リズムの躍動がとりあえず先に響くのだ。通常は音色(おんしょく)というのはメロディやら一連のパッセージやらがあって、それらにだらりと付随するように認識されることが多いものだが、この場合は違った。まず確固としたリズムがあり、その中に様々な色彩が濃縮されパッケージされているような印象を受けた。続く「七(しち)」も同様。七つのパートから成るこの曲は、やはりパッセージも七音から成ることが多く、そのミクロ/マクロでの「七」の対比もかなり綿密に設計されている。文字通り七変化ともいえる音色の共振。時に音は混流したままほどけないこともある。西沢直人の鉄器パーカッションや様々なベルの音も、さらに透明さを増す。特に中間部の静と残響が大きくクローズアップされる場面では、このパーカッショニストの現代音楽への傾倒と適性を見て取れた。ピアノが巧妙に先導して外枠を創り、その内側をパーカッションが幾層にも肉付けしていくかのようなインプロヴィゼーションを経て、航のソロへと突入。『Do-Chū』からの二曲を含む三曲。前回聴いた時は、そのインストゥルメンタルとヴォイスの乖離、或いは逆行の妙に出し抜かれるような快感を覚えたが、今回はそういったリズミックな面よりも、もっと本質的に音自体が孕む特質の対比が注目された。その履歴からも推察できるように、航のピアノにはかなりゲルマン的な背景というか、構造をしっかりと浮き彫りにするピアニズムがある。前述したように、自然に流れているようでいて抑制が効いているのだ。対するヴォーカルはというと、これが見事に、ドイツ語で言うところの"Gefuehl"(ゲフュール:情緒・情感・センス・感受性・触感・手触り・予感、etc・・の意)として浮かび上がる。言葉が音としてストレートに響くのだ(これは優れたパフォーマーに共通の資質だが)。この一見相反する二つの要素と、独特に揺らぐテンポ感が分かち難く結びついているからこそ、限りなく自由でいながらも深い芯のところで説得力を失わないのであろう。休憩をはさんでのセカンド・セットは、アルバム収録曲を中心とした四曲をデュオで。曲が進むにつれて、二人の出す音のそれぞれが独立感を増してデュオという構成を忘れさせる複合感を生みだす瞬間もあった。そして、それらの音の拮抗からかすかに生まれるところの無音空間の濃密さ。隙間というものの雄弁さを体感した。